大野

広島市内の西国街道はアスファルトで固められているが、
大野あたりまで行くと、未舗装の道が残る。
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明治以前、陸路が主体の頃はここを九州諸藩の大名が通ったんでしょうか。
幕末には、桂、西郷、坂本竜馬らの志士も往来したんでしょうね。
そう思うと、ただのこの山道を歩くと感慨深い。

天気がいいと歩くには問題ないけど、
赤土のこのあたり、雨が降ると滑って通行するには一苦労でしょう。
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赤い鳥居の向こうの大きな石。
幕末、江戸へ護送される途中に吉田松陰が腰をおろして休んだといわれる石。

第二次長州征伐の時に、長州と幕府が小瀬川からこの辺りで戦ったそうで、
山口では四境戦争と言うそうですね。
この辺りは、芸州口の戦いだそうです。

どうやってこんな山の中、険しい場所で戦ったか、私にはわかりません。
幕末、長州は輸入の鉄砲と、職業兵士以外、武士以外の階層からなる遊撃隊。
一方の幕府側は、旧来の火縄銃、槍に刀に鎧甲冑の装備の武士団だったとか。

やはり最新式の銃を持つ長州が有利に戦いを進めたようです。
それと、兵士の士気が高かったとも。
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そんな状況で、幕府側で丹後宮津藩の
依田伴蔵(よだ ばんぞう)がこの道を単騎で西へ進んでいた。
目的は、和平交渉。
当然、通常の合戦とは違う旗印、もしくは目印を付けていたと思われる。
しかし、長州側の前線の戦闘員には武士階級以外の者がいるので、
この時依田が示していたであろう目印が理解出来なかったのではないかと思う。
山の中であり、直線距離も短く、
目視で確認したら、直ぐに発砲しないと自分の身を守る事ができない。
なので、一人で近づく依田に発砲した。

撃った後に、長州側が身元を確認に行き、
依田自身から、使者としての目的を聞いた。
その時、看板にある「残念」の一言を残した。

村人が、依田伴蔵の最後の一言を聞いたと書かれているが、
戦闘域であるこの場所に村人が居るとは思われず、
大野の村までも距離はあるし、
「残念」の一言を聞いたのは長州側ではなかろうか?
看板にあるように、長州は依田を誤射した事を公に詫びている。

最後の言葉を村人に伝え、
そして社を築いた。
長く依田伴蔵の名前を残すようにしたのではないか。

ふぅ~ん、街道をながめながら幕末のある日を想像してみた。
実際のところは私にはわかりませんがね。
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Author:あんさん
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